アンドレアはどこで誰のもと弦楽器製作の修行をしたのか?
"A woman sits working at a spinning wheel as a man works at the table making a violin. Wood engraving by C & H after HH."is licensed under CC BY 4.0
アンドレアはどこで誰のもと弦楽器製作の修行をしたのか?
前回、クレモナのアンドレア・アマティがヴァイオリンを完成された形にまとめ上げた、アンドレアが工房を開くまで、クレモナに公式には弦楽器製作工房はなかった、と書きました。では、アンドレアはどこで弦楽器製作の修行をしたのでしょう?
移住してきた人、ジョヴァンニ・レオナルド・マルティネンゴ
1499年にクレモナはヴェネツィア共和国の支配下になり、多くのユダヤ人が移住してきます。その中に、ユダヤ人の息子でキリスト教に改宗したジョヴァンニ・レオナルド・マルティネンゴという人がいました。彼はヴェネツィア提督の要請でクレモナに支店を出した銀行のオーナーのひとりでした。この支店の業務については法律や特別な規約で規定されていて、その中になぜか楽器づくりが含まれていました。彼はまた、古物商をも営んでいました。金融業と古物商は、ユダヤ人がほぼ独占していた職業です。
事情は全く違いますが、現代の日本でもオールド楽器を扱ったり、オークションに参加したり、下取りをしたりで、ヴァイオリン店は古物商の認可を受けていますね。警察から盗難にあった楽器の通知/照会を受けることもあるのです。
1526年の戸口調査を見てみると‥‥
16世紀クレモナに話を戻しましょう。
1526年の戸口調査(国勢調査のようなもの)によると、このマルティネンゴの元で、アンドレアとジョヴァンニ・アントニオという二人の徒弟が生活していました。このふたりがアンドレア・アマティとその弟ではないかと考えられているのです。徒弟というのは内弟子のようなものと思われます。この戸口調査には15 歳以上のものは、兵役の対象者として全て記載されていたということなので、当然ふたりの徒弟も15歳以上ということになり、アンドレアは1511年より前に生まれたという計算になります。アンドレアの生年を1511年以前とする記述はこれが根拠なのでしょう。
アンドレアの生年を推定するのにもうひとつ資料が有ります。1556年の資料、兵役の対象になる16歳から50歳までの男性が記載されている書類で、ここにアンドレアの名前が無いのです、長男の名前は載っているので調査漏れということはないでしょう。名前がないのでこの時51歳以上、1505年以前生まれになります。かつて間違って認識されていたより一世代上、という感じですね。
製作技術はヴェネツィアから?
マルティネンゴの工房では、リュート、リラ・ダ・ブラッチョ、リラ・ダ・ガンバや、おそらくヴァイオリンなども製作されていました。ヴァイオリンといっても、まだ試行錯誤中の形が定まっていないものだったと思います。ここでアンドレア兄弟は楽器製作や彫刻を習得し、さらには演奏なども学んだのかもしれません。実態はともかく公式には、マルティネンゴの工房は「楽器製作者」の工房ではなくて、「金融業者」の一施設だったのでしょう。
ヴェネツィアから来たマルティネンゴの工房だったからでしょう、ここの楽器製作の技術はユダヤ人、ヴェネツィア人由来ともいわれます。ヴェネツィアでは、当時ヴィオールやリラ・ダ・ブラッチョ、リュートなどの弦楽器が作られていました。製作技術の発展にはドイツ系の製作者の寄与がありました。ヴェネツィアは交易の要衝で海路はもちろん、ポー川によって内陸へと通じ、陸路からはブレンナー峠を越えてアルプス以北へも通じていたのです。
ユダヤ人については、ヴァイオリンの成り立ちに関わっていたという主張があります。東欧ユダヤ人の音楽クレズマーにヴァイオリンが欠かせなかったり、現在でもヴァイオリニストにユダヤ系の人が多くいたり、ユダヤ人はヴァイオリンとの結びつきが強いような印象がありますね。この辺りのことは今後の課題にしたいと思います。
マルティネンゴの徒弟がアンドレア・アマティに間違い無いとしても、アンドレアの弟とされるジョヴァンニ・アントニオについて、他にあまり言及されていないのが気になるところではあります。
次回は、アンドレア含め4代続いた、ヴァイオリン製作一族アマティ家について見ていきます。