フランス王室のヴァイオリニスト
アマティ家は3代にわたってフランス王室のために楽器を作りました。国王の紋章やモットーなどが美しく描かれた楽器です。そのうちのいくつかは現存していて博物館などに保存されています。では、フランス王室はどこでアマティ家の楽器のことを知ったのでしょう。フランス国内でもなく、古くから楽器製作が行われていたわけでもない北イタリアはクレモナの製作者のことを、どうして知ったのでしょう。
イタリア出身の王妃カトリーヌ・ド・メディシス
冒頭の疑問に関して、よく取り上げられるのがカトリーヌ・ド・メディシス(カテリーナ・ デ・メディチ)の存在です。
カトリーヌはフランス王アンリ2世の王妃で、フランソワ2世、シャルル9世、アンリ3世の母です。アンリ2世亡き後、即位した息子たちの摂政として王室で長い間権力を握りました。文化的に進んでいたイタリアから様々な文物をフランスへ持ち込んだとされています。
メディチ家はルネサンス芸術最大のパトロンと言われるフィレンツェの富豪でした。カトリーヌもフランス宮廷にあって、広い分野でパトロンとして活動しました。ですから、音楽家や当時の王侯の嗜みでもあったダンスの教師などを通じてアマティ家のことを知ったのではないか、というわけです。
バルタザール・ド・ボージョワイユー
キリスト教世界最上のヴァイオリニスト
ここで興味深い記述をご紹介しましょう。
ブリサック元帥は、ヴァイオリンだけのオーケストラを編成していたが、ブラントームはそれを褒めちぎっている。「そのヴァイオリニストたちを高く評価された今は亡き王アンリとその王妃は、スコットランドの小さなリベカしか演奏できない役たたずのお抱え楽師たちの教育をして欲しい旨、元帥殿に申し込まれた。」この楽隊の花形は、ブラントームによると『キリスト教世界最上のヴァイオリニスト』バルタザール・ド・ボージョワイユー(バルダッサリーノ・ダ・ベルジオジョーソ)で(後略) マルク・パンシェルル 「ヴァイオリン属の楽器」より。
人名が次々出てくるので少し補足を。
ブリサック元帥は、フランス元帥として1551年から1559年まで、イタリア戦争でフランスの占領下にあったピエモンテに知事として派遣されていた人物です。ピエモンテは、イタリア北西部アルプスの西の麓に位置する地域で、当時は、現在のフランスとイタリアにまたがるサヴォイア公国の領地でした。
ブラントームは16世紀フランスの著述家です。フランスやヨーロッパ各地を漫遊し戦いにも参加したという、自身の豊富な体験や見聞を著しました。それらがまとめられ「回顧録」として出版されています。
王と王妃はアンリ2世とカトリーヌですね。
つまり、イタリアの占領地を治めていたフランスのブリサック元帥が、王室に、ベルジオジョーソという「キリスト教世界最上のヴァイオリニスト」とその楽団を紹介した、というお話です。そして、ベルジオジョーソは実際にフランス王室に仕え、国籍も得、ボージョワイユーと改名することになるのです。
振付師ボージョワイユー
ボージョワイユーという名前は、ヴァイオリニストとしてはあまり知られていないと思いますが、ニューグローヴ音楽大事典にも、「1555年頃、ブリサック元帥がカトリーヌ・ド・メディシスの元へ派遣した楽団の団長」とあります。
音楽家としても廷臣としても成功したようですが、ブラントームに褒めちぎられながらも、ヴァイオリニストとしてより、ダンス教師、振付師として名を残しています。バレエの歴史の記述には必ず登場する名前です。舞台監督・振付師として関わった1581年上演の「王妃のバレ・コミック」は、クール・ド・バレ(宮廷バレエ)の先駆け、オペラ発展への大きな一歩と言われています。
こうしたフランスでの活躍は知られていますが、それ以前のことは、ミラノで活躍したポンペオ・ディオボーノの弟子だったということ以外分からないようです。
それにしても、ヴァイオリンをどこで誰のもとで習得したのでしょう。ダンス教師はダンスを教えるに当たって小さなヴァイオリンのような楽器を使っていたようですが、楽団のヴァイオリニスト、「キリスト教世界最上のヴァイオリニスト」となれば尚更のこと、話は別でしょう。
生年や出身もわかりません。実績をあげ名を残しながら、本人について不明な点が多いのは、アンドレア・アマティと同じですね。ボージョワイユーはアマティのヴァイオリンを知っていたのでしょうか、どんなヴァイオリンを使っていたのでしょうか。「シャルル9世のヴァイオリン」以前のヴァイオリンについて調べる必要がありそうです。