ガスパロ・ダ・サロ 〜サロの街とベルトロッティ家〜
Alessandro Vecchi • Panorama di Salò 2011 CC BY-SA 3.0
クレモナには、おそらくアンドレア・アマティが修業をしていたであろうマルティネンゴの工房ができる以前、楽器工房(として正式に登録されたもの)はありませんでした。マルティネンゴの工房も古物商(金融業)の事業の一部だったようです。
当時、弦楽器そして鍵盤楽器製作が盛んだったのがブレシアでした。ルネサンスの芸術家達のパトロンだったイザベラ・デステが、ヴィオールのコンソートをブレシアの製作者に依頼したというのが1495年ですから、ブレシアでは15世紀から楽器製作が行われていたという事になります。
そのブレシアで本格的にヴァイオリン製作を始めたのが、サロ出身の製作者ガスパロ・ベルトロッティ、通称ガスパロ・ダ・サロでした。
サロのベルトロッティ家
ガスパロ・ベルトロッティは、ガルダ湖西岸のサロで生まれました。
ガルダ湖西岸一帯は古い時代から人が住んでいた美しい土地で、この地域の共同体(ガルダ湖のブレシア・リヴィエラ共同体)はヴェネツィアの支配下にあっても特別な自治権を与えられていたそうです。そしてサロはこの地域の文化・芸術の中心地でした。
ガスパロの父フランチェスコは絵画への関心も高かったようで次男の洗礼証明書には「サロの画家」と記されています。ガスパロの洗礼証明書では「ヴァイオリン奏者」になりましたが、名付け親には親交があったのでしょう、画家ゼノーネ・ヴェロネーゼの娘がなっています。
現在でもサロの大聖堂でゼノーネの「天使の音楽隊のいる降誕」が鑑賞できます。リュートを持つ天使とヴィオラ・ダ・ブラッチョを持つ天使が描かれています。サロの音楽環境を反映していたのでしょうか。
Nativity by Zenone Veronese
photo by Wolfgang Moroder CC BY-SA 4.0
この地域で音楽活動が盛んだったことは、サロ近くの町やヴェネツィアに残る文書の中で確認されています。
ガスパロの父フランチェスコと叔父アゴスティーノは仕事として音楽活動を始めました。1540年からサロの登記簿にはいつもヴァイオリン奏者と記されています。
サロ北方のバゴリーノでは1551年に「リヴィエラのヴァイオリン奏者たち」の存在が記録されていて、この中にベルトロッティ兄弟も入っていた可能性があります。実際のところはわかりませんが、このような音楽家達が活躍していたこと、ヴァイオリンの普及に貢献したと考えることは間違いではないでしょう。
アゴスティーノの息子ベルナルディーノはフェラーラ(ゴンザーガ家の宮廷)で音楽活動をし、その後マントヴァやローマでも演奏活動を続け、作曲家としても活躍しました。当時、音楽家やダンス教師などが、各地の宮廷で仕事をするのは珍しいことではなかったようです。
ガスパロの兄弟ジョヴァンニ・パオロとサンティーノもヴァイオリン奏者になりました。ジョヴァンニ・パオロは父の音楽活動を引き継ぎ、実家の相続もしています。
父フランチェスコはガスパロが若いうちになくなりましたが、叔父アゴスティーノはヴァイオリン奏者を続け、後にサロ大聖堂の司祭に指名されています。
オルガン製作家アンテニャーティ家
父フランチェスコはまた楽器の演奏をするだけでなく、チェンバロの価値の見積りをしたり、オルガンのメンテナンスをしたり楽器そのものにも関心があったようです。
1546年、サロの共同体はブレシアのオルガン製作家ジョヴァン・ジャコモ・アンテニャーティに大聖堂のオルガンを最新最高の状態にするように依頼しました。
このオルガン建設にベルトロッティ家は何かしらの関わりがあったと思われます。オルガンの仕上がりに不満を持ったサロ当局とアンテニャーティとの間で問題になった時期もあったようですが、ベルトロッティ家とアンテニャーティ家との関係は続いていったのでしょう。
後にフランチェスコがオルガンのメンテナンスをしたこと、ガスパロがブレシアに移って開いた工房はアンテニャーティの工房のすぐ近くであったこと、1581年のオルガン移設の際アゴスティーノが司祭として関わりグラツィア・アンテニャーティ(ジョヴァンニ・ジャコモの甥)に仕事を依頼したこと、などがわかっています。また、ガスパロの弟子マッジーニもアンテニャーティ家との親交がありました。長い期間、両家の交流があったに違いありません。
サロの音楽環境や家族の音楽家としての活動などを見ると、ガスパロもサロにいる間に、おそらく父のもとで、弦楽器の演奏や製作の訓練を受けていたのでしょう。
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