ヴァイオリンカフェ

ヴァイオリンという楽器について、主にその誕生について調べています。

ブレシアの先駆者たち ガスパロ・ダ・サロ以前

ヴァイオリン製作におけるブレシア派の創始者、ガスパロ・ダ・サロは、出身地のサロにいる間に家族から弦楽器の演奏や製作の訓練を受けていたと考えられます。ではガスパロが移住する前のブレシアの状況はどうだったのでしょう。

 

1500年代のブレシアとクレマの領土

    ブレシアでは16世紀に入る前から鍵盤楽器や弦楽器の製作が行われていました。音楽活動も盛んでした。16世紀に入るとそれらはもっと盛んになりました。

    サロの大聖堂のオルガンがブレシアの製作者アンテニャーティの手によるものということは前回にご紹介したとおりです。

    ブレシアや近隣の街に残る文書の中には、楽器の奏者や製作者と思われる人たちの記録があります。けれども16世紀より前の弦楽器本体そのものは残っていません。

    素朴なもの、生活の中で使われていたようなものは、特別扱いされることもなく時を経て失われてしまったのでしょう。次々に改良されたり試作された発展途上の楽器は、普及することもないまま姿を消してしまったのかもしれません。

    残っている16世紀の楽器も当初の形から作り変えられたり、部分的に取り替えられたりしていて、もともとの形がわからないことがあります。オリジナルでないのは残念ですが、弦楽器に様々な工夫や試行錯誤がなされた証拠と言えるのかも知れません。

 

ここではブレシアの製作者としてその存在が確かで、製作楽器も現存している2つのファミリーについてまとめました。

 

ミケーリ家

    ザネット・ミケーリは1489/90年以前に生まれ1560/61年頃に亡くなったブレシアの弦楽器製作者です。1527年の公文書にはヴィオール製作者として記録されており、1533年にブレシアで出版された本にも言及されています。作品の優秀さを述べた文書や楽器の販売証明書も残されています。

    少なくとも1527年から1615年まで、ミケーリ家の工房で3世代にわたる弦楽器製作者が仕事をしていたと考えられています。

    ここで1527年という年に目を向けてみましょう。この前年1526年のクレモナの文書には古物商(≒ 金融業者)でありリュート製作者でもあったマルティネンゴのことが記されています。マルティネンゴの工房にはアンドレアとアントニオという徒弟がいたとあり、この徒弟がアンドレア・アマティではないかと考えられているのです。

   この説が正しいとするなら、ザネットがヴィオール製作者として認められていた頃、アンドレア・アマティは未だ職人としては独立しておらず、徒弟だったということになります。

 当然、ザネットはヴァイオリンを作っていたのだろうか?という疑問が浮かびますが、現在のところヴィオラとして残っている(オリジナルから作り変えられた)楽器はあっても、ヴァイオリンと言えるものはありません。

    サイズや形のことを考えると、オリジナルがヴァイオリンで他の楽器に作り変えられてしまった作品がある可能性はとても低いでしょう。とは言うものの、ザネット最晩年の1560年の公文書の中には、「ペッレグリーノ、ヴァイオリン製作のマエストロザネットの息子」という記述があります。ザネットがヴァイオリンを作らなかった、とも言い切れない。

    ここで言うヴァイオリンが今日わたしたちが認識しているものと同じかどうかよく調べる必要はありますが、ヴィオール製作者からヴァイオリン製作者へと記述が変わっているのは興味深いと思います。

 

    ザネットの息子ペッレグリーノは父の仕事を受け継ぎましたが、主な仕事は当時普及した(けれどもその後姿を消してしまった)シターンの製作になっていきました。製作した様々なタイプのヴィオラやバス、コントラバスなどは小型化されたり、別の楽器に作り変えられたりして、そして失われてしまいました。

    ペッレグリーノは1520年頃に生まれ1606年に亡くなっており、ミケーリ工房の大半の期間を担っていたと言えるでしょう。残っている楽器は少ないものの、工房として成功していたことは子供達に財産を残していることからもうかがえます。

    

     ペッレグリーノの義兄弟だったバッティスタ・ドネーダ(1529頃~1615以降)は、金細工師の家系の出身で、いくつかの公証人の記録にザネットやペッレグリーノといっしょに記されています。また公文書にヴァイオリン製作者、労働者、従業員などとあることから、ミケーリ工房で仕事をしていた可能性が高いと考えられています。おそらく彼はミケーリの家族の一員として工房の仕事を手伝っていたのでしょう。

    ドネーダを除いて、工房に他人の協力者がいたという記録はありません。ミケーリ家の工房は家族で運営されていたようです。名前のついた楽器は残っていませんが、ペッレグリーノの息子たちもシターン製作者として父と共に記録されています。

 ペッレグリーノの息子フランチェスコが亡くなったのは1615年でした。遺書にたくさんの弦楽器製作のための品々を記していましたが、残念なことに彼に子どもがなかったことは確かで、後継者もいなかったようです。

 

 シターン

 

シターンとはどんな楽器だったのでしょうか?

ウィーン美術史博物館所蔵 ジロラモ・ヴィルキのシターンは下記のリンクからどうぞ。ぜひご覧ください。

   Kunsthistorisches Museum:

 

 ヴィルキ家

    ジロラモ・ヴィルキ(1523年頃~1574年以降)は、ガスパロ・ダ・サロの師匠と言われることもありますが、資料は少し異なることを示しています。ジロラモは専らシターン( 弦をはじいて演奏する撥弦楽器)を作っていましたが、ガスパロは特に初期には主に弓を使って演奏する弓奏弦楽器を作っていたのです。ヴィルキ家の工房でガスパロが働いたという記録も無いようです。

     師匠ではなかったにしてもガスパロとは早い時期から親交があったのでしょう、ジロラモはガスパロの長男フランチェスコの名付け親になっています。

 

    ヴィルキ家は木工職人の家系でした。

    ジロラモの父ベルナルディーノは木靴作りで兄弟の一人はこの仕事を受け継ぎさらに子孫につたえました。別の兄弟ベネデットとバッティスタの製作した木象嵌作品は、ブレシアの聖フランチェスコ教会に残されています。

    父ベルナルディーノとベネデットはまたシターン製作者でもありました。ジロラモもシターン製作者になりました。ヴィルキ家の楽器製作者はこの3人ということになります。ジロラモとベネデット兄弟の子供たちは楽器製作者にはなりませんでした。

 ジロラモの息子パオロは音楽家・作曲家になって各地の宮廷に仕え、ベネデットの息子ベルナルディーノ2世はオルガン製作者アンテニャーティの弟子になりました。ヴィルキ家とアンテニャーティ家にも関わりがあったということですね。

    こうしてみるとヴィルキ家がヴァイオリンを作っていた様子はなさそうですが、ブレシアの楽器製作者や音楽家との交流は盛んだったのではないかと想像できます。

 

    こうした環境のブレシアに、サロからベルトロッティ家のガスパロが移ってきたのです。